(「江の島片瀬龍口園ヨリ相摸滩ヲ望ム」,wildgun藏)
这是一张旧明信片,拍摄的内容是二战之前日本神奈川县江之岛附近曾经一座游乐园的高塔建筑。这座游乐园的名称,即是「龍口園」。现在,如果去江之岛或者片濑地区的话,是完全看不到其踪影的,因为早在二战前,它就已经消失得无影无踪了。
こちらの古いポストカードの画像は、かつて第二次世界大戦前、日本神奈川県江ノ島付近に位置する遊園地の塔で、遊園地の名前は「龍口園」です。今、江ノ島や片瀬に行っても、その姿が見えません。早くも戦前、その姿が既にすっかり消えました。
我是在兵库县西宫神社的「えべっさん古本まつり」二手书展会上买到这张明信片的。在此之前,我正好读了喜清みずほ关于该游乐园的建立过程的调查报告《~幻の 遊園地~「江之島龍口園」の軌跡》。在该报告中详细调查并披露了「龍口園」成立和经营的过程,不过对于该游乐园落幕,却未能详尽。
兵庫県西宮神社の「えべっさん古本まつり」でこのポストカードを購入しました。その前、ちょうど喜清みずほ氏が書いたこの遊園地の成立過程についての調査レポート《~幻の 遊園地~「江之島龍口園」の軌跡》を拝読いたしました。このレポートでは「龍口園」の成立と経営について詳しく調査し紹介しましたが、遊園地の終焉については不明なことが多いです。
于是,我也着手尝试调查了一下。很凑巧,我在读卖新闻的数据库「ヨミダス歴史館」里找到了这么一篇报道:
そのため、私も試して調べてみました。偶然に、読売新聞のデータベース「ヨミダス歴史館」からこの記事を発見しました。
1938年8月7日 読売新聞 昭和の地域版記事(神奈川県版)
「龍口寺の鐵塔 國策に殉じて散る 殆んど立腐れ状態の悲しい運命から 遂に二千七百餘圓で身賣り」
翻译成中文,即是:「龙口寺铁塔 献身于国策而解体 由几乎朽烂空置的悲惨命运 总算以二千七百多元卖出」。
根据新闻里提到的一些线索:
記事で言及した内容:
「全く世人にも忘れられてしまったかの悲境にあり大鐵塔も立ち腐れの有様で僅かに三銭、五銭の入場料で付近の子供の遊び場と化してしまった、折しも支那事變起り世は鐵材の総動員時代となったので橫濱市會議員湯本一郎氏は所有者朝比奈豫備海軍中佐に」(中略)「と話したところ朝比奈氏は「然りッ」と二千七百五十餘圆で湯本氏に賣却したので、同氏は早速五日から取壊しに着手した、十二年間龍口寺山頂に頑張り其復興を待った鐵塔も遂に再生の春はめぐり来らず」。
由此可以了解到:
これによりますと:
「龍口園」最后一任所有者:「橫濱市會議員湯本一郎」;倒数第二任所有者:「朝比奈豫備海軍中佐」。
「龍口園」最後の所有者:「橫濱市會議員湯本一郎」。後から二番目の所有者:「朝比奈豫備海軍中佐」
转卖价格:2750余日元
転売金額:2750円余り
拆除原因:响应大日本帝国所发布的「鉄鋼国策」
解体原因:大日本帝国の「鉄鋼国策」に応じる為
拆除之前的营业情况:收取低廉的入场费,作为附近儿童的游乐场所。
解体前の営業状況:安い入場料で地元の子供に遊び場所として提供します。
解体工程开始时间:报道中的「五日」,推测应该是指本篇新闻报道日期(1938年8月7日)前的1938年8月5日。
解体工事の開始時間:記事のなかの「五日」、おそらく記事日付け(1938年8月7日)直前の1938年8月5日だろうと思われます。
整理时间线:「支那事變」*→「鉄鋼国策」→转卖→解体
事件の流れの整理:「支那事變」*→「鉄鋼国策」→転売→解体
*此事件发生于1937年(昭和12年)7月7日。事件名称为引用新闻报道原文。
*1937年(昭和12年)7月7日の事件。事件名は記事内容のまま。
具体可推测,「龍口園」的经营结束时间或许应该是持续到了1937年(昭和12年)的后半年甚至是1938年(昭和13年)的8月前。比喜清みずほ在报告中推测的「営業継続後、昭和9~11年頃の完全閉園」应该要晚1年左右。
これによりますと、「龍口園」の経営終了時期は、1937年(昭和12年)の下半期か、1938年(昭和13年)の8月前でしょう。喜清みずほ氏レポートでの推測「営業継続後、昭和9~11年頃の完全閉園」より恐らく1年遅れると推測します。
关于「朝比奈豫備海軍中佐」,即「龍口園」倒数第二位所有者,我想应该就是喜清みずほ报告中出现的「朝比奈正一」吧。在一个似乎是收集当时日本军人资料的网页人名事典あさは〜中,我也查到了这个名字。
後から二番目の所有者「朝比奈豫備海軍中佐」について、喜清みずほ氏のレポートで言及した「朝比奈正一」とは同じ人物だろうと思います。また、当時の兵士人物資料を集めるサイト人名事典あさは〜で、この名前も発見しました。
朝比奈正一Asahina Shouichi、-1940(97Is、7/17東京).主計中佐.
1897.7/7少主計候補生、呉海兵団付
98.8/6少主計、済遠乗員
1900.9/25中主計>東雲乗員01.10/1天龍兼千代田主計長心得
02.10/6大主計、天龍主計長>高千穂主計長
07.9/28主計少監、兼松江主計長>千歳主計長10.1/12筑波主計長>横須賀港務部(-13.2/19兼関東丸)主計長
19.9/23主計中佐
40.2/17死去(70歳).
从其1919年开始担任「主計中佐」,以及之前1907年开始在横须贺港(位于横滨附近)的活动来看,应该就是同一人。
1919年の「主計中佐」の条や、また1907年の条で示した横須賀港での活動から見れば、恐らく同一人物だろうと思います。
此外,我还查到了一些关于「龍口園」内一些建筑设施的名称。
そのほか、「龍口園」内のいくつの施設を名前を確認しました。
在《横浜市勢要覧 : 隣接町村併合記念 紀元2587.11》(佐藤良輔 編著,横浜市勢要覧出版部,昭和2)这本书的第三三二页,提到了园内以下几个名称:
《横浜市勢要覧 : 隣接町村併合記念 紀元2587.11》(佐藤良輔 編著,横浜市勢要覧出版部,昭和2)という本の三三二頁では、以下の園内施設の名前が言及されました:
昇龍塔
通天橋
清水坂
亀の井
日暮亭
朝天閣
雪見臺
以上,就是关于湘南地方史中「龍口園」鲜为人知的场景,我所做的一些小小的调查。
以上、湘南地方史において、ほとんど知られていない遊園地「龍口園」についての、ちょっとした調査です。
参考: